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浮遊する日本語、どこへ行く?
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言葉が出ない、言葉を知らない、もがく若者。
この現実を危機観をもって眺めてみよう。
六角堂翔太
kotsujiki@archer.livedoor.com
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35の節 巻末目次

2005/09/20 11:18
2005年
8月12日  1の節   前書き
〃 13日  2 〃   動詞
〃 15日  3 〃   〃 A
〃 16日  4 〃   〃 B
〃 17日  5 〃   〃 C
〃 18日  6 〃   〃 D
〃 19日  7 〃   〃 E
〃 20日  8 〃   〃 F
〃 21日  9 〃   〃 G
〃 22日  10 〃  〃 H
〃 23日  11 〃  助動詞・受身
〃 24日  12 〃  〃     A
〃 25日  13 〃  〃     B
〃 26日  14 〃  助動詞・可能
〃 27日  15 〃  〃     A
〃 28日  16 〃  様々なる迷走
〃 29日  17 〃  〃     A
〃 30日  18 〃  〃     B
〃 31日  19 〃  助詞
9月 1日  20 〃  〃 A
〃  2日  21 〃  〃 B
〃  3日  22 〃  〃 C
〃  4日  23 〃  〃 D
〃  5日  24 〃  〃 E
〃  6日  25 〃  敬語
〃  7日  26 〃  〃 A
〃  8日  27 〃  間引き表現  
〃  9日  28 〃  〃    A
〃 10日  29 〃  カタカナ言葉
〃 11日  30 〃  〃     A
〃 12日  31 〃  英文和訳調
〃 13日  32 〃  名詞
〃 14日  33 〃  〃 A
〃 15日  34 〃  蛇足
〃 20日  35 〃  目次


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34の節 蛇足

2005/09/15 00:10
ジョイロードから電話。若い女の声。

「もしもし、中村さんのお宅ですか?」

「そうです」

「和雄様はいらっしゃいますか?」

「和雄様?そのような子供はいませんが」

「子供?」

「そう、子供。あなたが和雄様と言っているのは子供のことではないのか?」

少しきょとんとしている様子。それでも気を取り直したように、

「いえ。和雄様はいらっしゃいませんか?」と繰り返す。

「和雄と言うのは私の名前だが、私を呼んでいるんですか?」

「はい、そうです。実は・・・」と用件に入ろうとする。

「ちょっと待って!大の大人に向かって何だね。私はそのように名前で呼び掛けられたくはないね。いくら様を付けてあっても、呼び捨てにされているような気がする。親しい間柄の者からではないんだから。分かりますか?私の言っていることが」

「・・・」

「あのね、様を付ければいいってもんじゃないんだよ。大人に呼びかけるときは苗字に様を付けなさい。どうしても名前を言いたいときには、苗字と名前を並べて言うもんだ。そうすれば、ちゃんと相手を敬った言い方になる。分かった?」

「・・・」

「分かっていないらしいね。では聞くが、あなたの会社の社長は田中二郎といわれるが、あなた達は社長に呼びかけるのに二郎様とか二郎社長と言うかね?言わないでしょう。それでは失礼な言い方になると思うからだ。田中様とか田中社長としか言わないはずだ。そこで聞くが、あなた達はお客には失礼な言い方をしてもいいと思っているのかね?」

「いいえ」

「そうでしょう。電話での時も、お客さんに呼びかけるときは苗字に様を付けるか、苗字プラス名前に様を付けるかするもんだ。これが日本語です」
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33の節 名詞2

2005/09/14 00:11
<野放しの名詞誤用>

 言うまでもなく、誰しも間違った言葉を使ってしまうことは多いが、報道の仕事にかかわっている者があまり酷い誤りを犯してはもらいたくないものである。ところが、新聞でもテレビでも未熟な日本語能力を抱えたままの若者が記者などに採用されてしまう事態はどうやら避けられないように見える。危機はすぐそこまで迫っていそうだ。

 中越地震の現場から報告していたTBSのリポーターは、みなが住民の生死を気遣っているのに何故か「生死」とか「生否」とは言わず、もっぱら「安否」という。
 小樽の赤煉瓦倉庫群を訪れたNHKのリポーターは、「貨物」を「荷物」という。
 NHKの高校野球実況放送では、「順延」でも、ずっと先への「延期」でも「順延」という。
 テレビ朝日では、どんな「服」(「着物」ともいう)でも統べて「洋服」といって通した。
 江角マキコが国民年金のCMに出演していたことが非難された報道記事(サンケイスポーツ)で、記者は彼女を「確信犯」だと断じた。「確信犯」ならCMには出なかったろうものを。ところが、「確信犯」が何かを知らずにこの言葉を使う記者はこの記者にとどまらないらしいのである。もはや何をか言おう。
 炊いたご飯を「お米」という若い女(TBS)。あとでスタジオの誰かが、それは「ごはん」というのだよと教えてやったなら上出来だが。
 テレビ東京に出演したある地方自治体の要人が「大宗」と言ったのを追って画面に現われたテロップには「大層」とあって、最後まで訂正もなかった。
「(私が)彼らと対峙したとき」(TBS)。「対峙」?ただ事ではなさそうだと思わず身構えてしまった。その実、「出会ったとき」とか「対面したとき」とでも言えばすむ場面だった。
 あたふたと早足でバス停にかけよる客がいるのを認めたバスの運転手が声を張り上げて車内の乗客に告げた。「ご一名様、収容いたします。しばらくお待ち願います」。「収容」?囚人護送者か、このバスは。
 「侵入」を「潜入」。「範囲」を「範疇」(と言った大学の先生)。「診察」を「診断」。「面接員」を「面接官」と、この種の誤りにきりはない。因みに、「官」が付くのは国家公務員だけである。自治体の職員でも「官」ではない。いわんや、社員の採否決定にあずかる面接員を面接官とはいわない。

<名詞+「する」>

「世界を震撼とさせたあの事件・・・」(と、番組司会者。テレ朝)。「震撼する」「震撼させる」ならあるが、「震撼とさせる」は日本語にない。
「在庫することができなかった」。日本語に「在庫する」はない。ここでは「入庫する」とか、何かほかの言葉を考え出すべきだった。

<名詞か副詞か>

 次に、多くは漢字二文字の名詞の副詞的用法について一言しておきたい。これがまた、若年層の苦手とするところのようだ。
「佐々木小次郎殿とは露とも知らず」(NHK、「武蔵」)。「とも」は不要。
「一入に」。「に」は要らない。

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32の節 名詞

2005/09/13 00:41
■名詞も先細り?■

<兼用語>

 外来語になってしまったかの感がある「トラブル」「ケア」「システム」の類の場合と等しく、何もかも使い慣れた語句ですまそうとする怠慢が、テレビ放送の各局にすら横溢している気がしないでもない。

 いくつか例を挙げてみよう。
 何にでも「状態」と言ってすまそうとする。必要のないのに「状態」をくっつけようとすることも多い。「・・・したまま・・・」といえばすっきりした表現になるのに、「・・・した状態に・・・」と言ってしまう。時には「状態」と「状況」が無秩序に入り乱れる。
 「情報」はもっと愛されている。一例として「報告」といえばすんなりと耳に入るときでも「情報」になる。

 これほど一般的ではなくても、一語をもって数語に替えて恬として顧みない人を少なからず見かける。
「進歩」も「成長」も「進化」も、すべて「進化」。
 火事の現場からは、「鎮火」でも「鎮静」でもなく、なぜか「鎮圧」。これではまるで反乱軍である。
「価値」などの言葉をそのままでは使えない人も多いのに驚く。なぜか「価値観」としか言わない。彼らにとって「価値」も「価値観」も同語であるらしい。
 似た例はいくらでもある。「統一」も「統一性」も「統一観」もみな「統一観」。
 この伝で「危険」は「危険性」としか言わないし、「方向」は「方向性」とのみ、「関係」は「関係性」で両方を兼ねる。

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31の節 英文和訳調

2005/09/12 00:21
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■英文和訳の落し子■

 外国語、とくに英語が日本語に及ぼす影響は、カタカナ語の氾濫にとどまらなかった。その一つに予想外のものがあったことが分かる。すなわち、中高校での英語の授業の過程で生徒たちの体にしみついたのは、英語そのものではなく英文和訳調の日本語の言い回し方だった。

 その代表例の一つに「・・・することによって・・・することができる」という何とも不器用、不恰好を絵に描いたような言い方がある。いく世代にもわたって日本人が受け継ぎ発達させてきた日本語はそのようなものではなかった。はるかに響きがよく滑らかだった。上に挙げた言い回しを本来の日本語の姿で言い替えてみれば、「(こう)すれば、うまく解決できる」、「(こう)すれば、もっと沢山手に入る」という風になろう。
 「することによって」と「することができる」は、それぞれ単独ででも若年者が頻繁に使う大好きな言い方であるのは、つとに周知の事実だ。

 前者の「することによって」には、変種として「することで」があり、少しニュアンスが違うかも知れないが「ということで」というのもある。年配者の世代では、これらは「・・して」、「・・で」、「・・すれば」、「・・すると」、「・・ので」、「・・なので」、「・・するために」、「・・したために」などと簡潔に言い、豊かに使い分ける。思い上がった現代の若年者は、言葉すら大人から学ぼうとしない。
 注目したいのは、ここに列挙した中に「・・して」と「・・すれば」が同列に並んでいることである。NHKのある番組で聞いた語りすら、この両者に替えて「・・することで」だけで通していた。これからの日本人にまともな分析能力が育っていくのだろうか。マジで心配してしまう。

 ここで少し例を示してみよう。
「家事をしっかりやることでも、・・・することができる」(と、アナウンサー。NHK)。「やっても」の方がずっと分かりやすく耳にも快いと思うのだが。
「洗濯に使うことで、嫌な匂いを発生させない」(日テレ、「おもいっきりテレビ」)。「洗濯に使えば」の意味だと知るまでに、ちょっと時間がかかってしまった。
「避難勧告ということで発令させていただきました」(と、新潟水害時の消防署の責任者)。まるで人ごとのように聞こえる。
「辛そうだという事で、何とかしてあげたい・・・」。「辛そうなので」という表現すら消えかかっているのかと、危機感を覚えてしまう。
「配管を寄せることで、キッチンはこんなに広くなります」。かつては、「寄せれば」と聞けば、配管工の言いたいことはすんなりと耳に入ったものだが。

「・・・することができる」は、英文和訳の影響というより、自国語、すなわち日本語の助動詞を使いこなす自信のない若者たちが窮余の一策として頼るようになった言い方にほかならない。
 もちろん、動詞や助動詞の語尾の変化というものがない英語の影響も決して見過ごすことはできない。そのような英語の助け船にすがり寄らない手はなかった。こうして彼らは「することができる」という長たらしく不器用な言い方を重宝している。四方八方から聞こえてくるのは、いつも「・・・することができる」である。

「子供たちはまだ歩くことができる様子で・・・」(NHK)。「まだ歩けるようで」となめらかに正統な日本語が出てくるようになる言葉の躾ができていない。だから、「・・が分かる」も、「・・・を知ることができる」などと、ぎこちない言葉しか使えない。
「・・・に欠かせないものは・・・」も、彼らの手にかかると「・・・に欠かすことのできないものは・・・」と、まだるっこい表現になってしまう。

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30の節 カタカナ言葉2

2005/09/11 00:09
 はじめ日本語で言っておきながら御丁寧にも英語でくりかえすご仁がテレビなどにはしばしば登場する。英語ででも言っておかないと落ち着かないのでもあろうか。
「・・・皇帝、ラストエンペラーは・・・」。偏見と勝手な思いこみで組み立てたようなあのハリウッド映画の題名が、一部の日本人の頭にはどこまでも付いて回っているようだ。
「小振りです」と言ったあと、わざわざ余り一般には馴染みのない「マイナーです」と言い直す。これっていったい何なんだろう(NHK)。
「想像力を、イマジネーションを・・・」。自分の外国語力を世に広く知らせたいのだろうか。
「味わい、テイストは・・・」(テレビ東京)。右に同じ。
「立地というか、ロケーションが、更においしくさせてくれますよね」(CM)。右に同じ。

 当然と言わなくてはならないのだろうか。逆もまた起ることが珍しくない。
「チェックポイント、検問所で・・・」
「ライフスタイル、生活習慣が・・・」
「バックヤード、作業場では・・・」
 何のための繰り返しか、よく分からない。英語のお勉強?

 英語に精神をかき乱される人の多いこの国では、珍妙と言いたくなる事例をときどき目撃することになる。
 人気の高い氷川きよし君は、小母さま方には若様だが、西洋人気取りの若い女たちにはプリンスである。英国のあの女王のご亭主だってプリンスなんだけど。
 NHKのニュース室の若手の原稿書きには、ニュー・シップ の訳語に「新造船」が出てこなかったらしく、「新しい船」と小学生のような訳で澄ましていた、というのがニュースを聞いていた皆の一致した意見だった。
「ヘブン・アンド・アース」。またまたハリウッド映画の題名のカタカナ書きかと思えば、中国映画の題名までカタカナ書きなのだった。漢字の題名を知りたい人も多いというのに。

 ところで、カタカナ言葉にも思いがけない効用があった。元来の率直な言葉では暗い邪悪な響きがつきまとうからか、それを使いたくないときは、これをカタカナ言葉で言い替えればよいのである。例えば、日雇いをフリーター、手配師をハケン(厳密にはこれはカタカナ言葉ではないとの異論もあると思うが)という。臭いものには蓋の類か。不健全かも知れないが、これも世相の一端である。

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29の節 カタカナ言葉

2005/09/10 00:10
■言霊の幸はふ国■

 1945年日米戦争が終わって、アメリカが勝者としてこの地を土足にかけて以来、この国はアメリカの目論み通りフィリピンにつぐ経済的植民地の道を歩みつづけている。誰の目にも明らかにうつる現象は、アメリカ産業の市場化、アメリカ軍国主義の橋頭堡化、そして日本文化の衰退から消滅へと足ばやに進む姿である。
 かつては「言霊の幸はふ国」と歌われて、豊かな言葉の伝承を誇ったこの国では、今この言葉、日本語が、絢爛たる日本文化の他の多くの要素、成分とともに急速に弱々しい姿を取り始めている。
 それを促している事象の一つが奔流のようなアメリカ英語(米語ともいうようだが)の流入である。言語を含む文化というものが、軍事的経済的強者の文化が弱者に向かって流れて行き、往々にして最後には弱者の固有の文化を抹殺してしまう結果となるものであることは、世界の長い歴史の上で幾度となく観察されてきた。
 この国はアメリカ英語の洪水に呑込まれようとしている。それは滔々たる流れとなってこの国を満たし危険水位にむかって刻々と水面を上昇させている。その結果、すでに数知れない貴重な日本語の語句を水没の淵に追いやっている。

 「トラブル」という過疎地に住むお婆ちゃんまでも口にするお馴染みの外来語がある。ほんの十年か二十年前まで誰もが日常ふんだんに「もめごと」「いざこざ」「ごたごた」「いがみ合い」「すったもんだ」「いさかい」「争い」「厄介」「摩擦」「軋轢」「悶着」「確執」「面倒」「反目」「故障」「支障」「抗争」「紛争」「角逐」「不調」「異変」「異常」「鞘当て」「睨み合い」などと使い分けて表現していた事柄が、今はすべて「トラブル」の一語で語られるようになってしまった。
 まだまだ、人々が「トラブル」で片付け、追放してしまおうとする旧来の言葉は、数え上げれば切りがなさそうだ。異常事態である。上に挙げた数々の言葉がそれぞれに異なった意味を持っていて、それぞれに適所で使うものだという意識が人々の頭から薄れていくだけのことではない。言葉そのものが忘れられて行って、やがては日本語の辞典から消え失せてしまいかねない。体質の弱々しい日本語、ひいては思考能力の甚だしく損なわれてしまった日本人ばかりが後世に残ることになろう。
 この類の外来語がいったいどれ程あるのかとても見当がつかない。「ダメージ」「ドア」「タイトル」「ケア」「エスカレート」「サイズ」「オープン」「システム」「イメージ」「メッセージ」「トータル」「サイン」「シンプル」「マジック」「スタイル」「アイデア」「コミュニケーション」「グリーン」「オレンジ」それに最近には「パープル」。まるで腐った魚の死体に蛆がわくように、この種の言葉は増殖を止めない。

 それでも、原語の意味を大部分とどめた意味で使っている外来語ならまだしもましと言えるかも知れない。
 断面を見るために二つに輪切りするのを「スライス」と言った若い男がいたが(NHK)、この場合はこれを聞いた視聴者は同時に映像を見ていていたからよかったものの、このごろ続々とテレビなどに登場するカタカナ語には、英語に通暁している人が聞いても、どこから拾ってきて、どういう意味で使っているのか頭を傾げそうな語句も少なくない。
 英語は使えなくても、たまたま知った英語の単語はすぐ使ってみたい衝動に襲われるものらしいが、それは考えもので、とりあえずは自制した方がいいかも知れない。ついこの間も、「ソフィスティケイテッド」がうまく言えずに口をもごもごさせて終わったアナウンサーがいた(フジテレビ)。

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28の節 間引き表現2

2005/09/09 00:15
「私は出張を満喫しています」(日テレ)。いったい出張の何を満喫しているのか、推察を色々とめぐらす座興も提供してくれる愉快な発言だが、ことによると、この若者は満喫を誤った意味で使っている疑いも残る。
「JRの職員は朝ラッシュに追われております」(フジテレビ)。ラッシュというものに追いかけられているのでないことは分かるのだが。
「ひときわ動きまわっている」(若いリポーター。NHK、「ためして合点」)。「ひときわ」という言葉を知っているのは褒めてやりたいが、ここで「激しく」とでも続けて欲しかった。
「・・・であるかが分からない」。頻繁に耳にする言い回しである。この場合「であるかどうかが」とする必要があることを若年層の何人が知っているだろうか。「であるかどうかが」と「であるかが」は区別して使わなくてはならない。意味が異なるからだ。
「石油罐をかぶせることによって音をより響かせる効果があるのです」(NHK、「お宝映像クイズ」)。「より」のあとには「強く」とか入れてもらいたいもの。
「これでもか」。「これでもかこれでもか」を「これでもか」ですます若者が多い。「これでもか」は別に使い道があり意味も違うことを知らないのだ。
「結婚を控えた」。「目前に控えた」というふうに「目前に」とか何とか入れておかないと、この頃の人は「控えた」が好きで、色んな意味に使っているから、逆の意味に取られかねませんよ。
「・・・には施しようがない」(NHK)。このアナウンサーには「手の施しようがない」とぐらい言って欲しかった。
「(・・・地震の被害者が)自衛隊の車に給水に来る」(フジテレビ)。「給水を受けに来る」じゃないの?
「分かるか分からない」。滑稽な表現である。これは「分かるかどうか分からない」と言うところ。「どうか」が入っているのは、それなりの訳があって入っているのだと考えた方がいい。勝手に省けばいいってもんじゃない。
「このような被害に会わないためにも」(NHK)。かなり定着してしまった言い方だが、「会わないようにするためにも」と、きっちり言ってほしい。。
「山口産であるかないかにかかわらず」(朝日新聞)。これも「であるかないか分からないにもかかわらず」と、面倒くさがらずにきちんといった方がいい。
「完成まで半ば」(日テレ)。「道半ば」が出て来なかったらしい。
「お話をいただいて・・・」(医者が患者に。NHK)。談話か講話を拝聴したのでもあるまいに、「お話をしていただいて・・・」とならないのは困ったことだ。

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27のふし 間引き表現

2005/09/08 14:41
■言葉がどこかへ消し飛んで■

 岡三証券から若い女性の声で商品案内の電話がかかってきた。さすが信用が命の準大手、正しく訓練された話しぶりに感心したが、とくにその商品には関心がわかず、そのむね告げると、
「ではまた、改めさせていただきます」
「えっ、何を改めるの?」
「・・・」
 どうやら、「改めて電話をかけさせていただきます」と言いたかったらしい。それにしても、大胆極まる省略だった。

 話の途中で必要な言葉がどこかへ飛んで行ってしまうのも若者によくあることで、これが彼らの会話の特徴にもなっている。大抵は何が飛んで消えているのか聞く者に見当がつくので無事にすんでいるが、無事にすまないことが時には起りかねまい。
 これも彼らの日本語の習熟度の低さに起因するものと考えるしかない。幼児期、児童期をつうじて母親が中核となる生育環境のなかで体得する言葉、日本語の場合は動詞、助動詞の語尾の変化を体得することが中心となる言葉だが、体で覚えていく言葉づかいの規則というものは、それだけではないことは言うまでもない。
 言葉を体で覚える環境に恵まれていない今の多くの若年層の人たちは、自分の口が発した言葉のうちに、あ、ちょっと何処かおかしいなと感じることは少ない。感じることができないでいると言った方がいい。その結果おこりうる現象としてはさまざまなことが観察されると思うが、言葉の飛ばしもその一つでない筈がない。
 次にその数例を挙げる。

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26の節 敬語2

2005/09/07 01:14
<「泥棒の方がお捕まりになりました」>

 次に目立つのは、敬意を向ける対象の無軌道な広がりである。その状況はデタラメを絵に描いたようなものだ。目下の人間にはおろか動物にも無生物にも無形物にも尊敬語を使って平然としている日本人が目立ってふえている。これでは敬語も何もあったものではない。日本文化の貴重な財産である敬語はこうして滅び行こうとしている。

「担当の松本は一時間後にならないとお帰りにならないのですが・・・」(旅行会社の社員)
「海亀に5頭ぐらいは来ていただけるように願っていたが・・・」(ある自治体の役職員。NHK)
「いま私が着けていただいているもの(ブローチ)は・・・」(TBS)。「着けているもの」では?
「子供たちに展示品を拝見してもらおうという試みです」(NHK)。「見てもらおう」でいけなければ「拝見させていただこう」と言ってほしい。
「このフリップをご覧になりながら説明して行きたいと思います」(日テレ)。このように主語が説明を聞く者から説明する者に突然変わっては、聞くものは戸惑いを覚えてしまう。
「この細菌はどんな方にでもいらっしゃる」。ここでも、話し手の頭の中では主語がいつのまにか転移。
「(犯人が)お捕まりになりました」(若い女のタレント)
「(宅間)被告に判決をきちんと聞いていただいたら・・・」(NHK)
「(泥棒は)金髪のかつらを被っていらっした」(目撃者)
「自分の子供たちもあんな風に(北島庸介のように)なっていただきたいなと(思って)・・・」(若い母親。NHK)
「何回お誕生日が来られても」(外資系保険会社のCM)

 呼び鈴が鳴る。玄関に誰か来たようだ。扉を開けると、近所の奥さんだった。年はもう50に近い。彼女がいきなり言った。
「こんにちは。高橋と申しますが」
 当方すこし戸惑って、
「高橋さんならよく知ってますけど・・・」
 彼女も、自分が今おかしな言葉を口にしてしまったことに気が付いて、照れ隠しに
「ふふっ」とかるく笑った。
 お互い初対面ではない。よく知った間柄である。昔なら「高橋ですが」だったのだ。

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25の節 敬語

2005/09/06 00:20
<IMG SRC="http://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/005/006/07/1/200509_img_2.jpg" HEIGHT="240" WIDTH="320" ALIGN="right" CLASS="up-image" ALT="画像" TITLE="画像を等倍で表示します" ">
■それでも敬語は生きてる■

 若い世代の人たちが使っているつもりの、というより使おうと涙ぐましい努力している敬語は、もう支離滅裂の姿をしかとどめていない。このことは日本列島の隅々にまで及んでしまって、日本語の破綻の始まりを告げる鐘の声のようにも聞える。
 ここで敢えて言うまでもなく、こうなった最大の原因は、核家族の増殖によって三世代家族が姿を消して行ったこと、それに形影相伴うようにして隣近所社会というか、地域社会もまた消滅の一途をたどったことに求められよう。
 親から子へ、子から孫へという言葉の伝承の流れに大きな障害ができてしまったのである。向う三軒両隣のおじさん、おばさんが口にする言葉を耳にして知らず知らずのうちに言葉を学ぶ機会もいつしか奪われてしまった。

<敬語は二重、三重で安心>

 敬語に対する子供たちの惑いもいくつかの類型に分かつことができる。その一つは敬語の二重使用とでも呼べるものだ。敬語は一つ入れば十分であるものを、二つも、甚だしくは三つも入れて取り繕ろおうとする。こんなところにも幼児期、児童期に言葉を習い覚える機会に恵まれていない現代の若者の苦衷を見て取ることができる。
 ところで、敬語の二重化現象は若年者だけにみられる特徴かというとそうでもない。主としてテレビから採取した材料が教えてくれたのは、大の大人がそのような言い方をしてはばからないでいる現実だった。

「・・・氏が説明されておられる」。これは「説明されている」とするか「説明しておられる」とするところ。
「分析されていらっしゃいますか」(テレ朝)。
「総理が再三おっしゃっていらっしゃいますように・・・」(テレ朝)
「毎日拝見させていただいております」
「研究されていらっしゃる」(NHK)
「・・・を楽しんでいただいて下さいね」(NHK、「スタパ」)
「・・・が(を?)されていらっしゃいます」(NHK)
「「・・・など百本以上の映画にご出演されていらっしゃいます」(NHK)
「おっしゃられました」(野球解説者)
「御登場された」(NHK)
「このように打たれていただくと・・・」(ゴルフ・コ−チ。NHK)

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24の節 助詞6

2005/09/05 01:02
<「的に」>

 さて、数年前のこと、テレビに登場した若い男がいきなり「ボク的には」と言うのを聞いたときに思わず吹き出してしまった記憶があるが、この「的に」が、その後あれよあれよという間に日本国中に広がってしまう勢いを見せたのには正直驚くほかはなかった。
 今ではNHKその他のお堅い番組に出席される学識高い方々までが「将来的には」とおっしゃるようになった。従来は「将来」とか「将来は」と言っていたものだ。
 漢字二文字の名詞の副詞的用法は昔から決して珍しいことではなかった。ところが、この用法を避けようとする傾向が近来でてきている。これも自分の日本語に常に不安を覚えている若い世代の者たちの迷いのなせる結果かと思われる。
 「将来的には」が本来は「将来」または「将来は」であるのに対して、多くの「的には」は、たいてい「・・は」ですむものか、または「としては」と言っていたもののようだ。以下の例はみなそうである。

「からだ的には問題ないのですが・・・)」(NHK)。「からだは」ではいけないのだろうか。
「正解的には」(NHK、「ためして合点」)。「正解は」でよいのでは。
「私的には・・・」(30台の女性アナ。NHK)。かつては「私としては」としか言わなかった。けったいな言葉づかいといえよう。
「形的には」。「形は」でよい。
「・・・をして貰うことが気持的に癒される」(TBS)。「気持が」でよい。もっとも、「気持」の前にきた「・・・をして貰うことが」が「・・・をして貰えば」となっていれば、すんなり「気持が」となっていたかも知れない。

 珍妙な例も多い。
「ビジネス的的には・・・」(テレビ東京、経済ニュース)
「経営上的には黒字を出している」(TBS、CM)
「こんなのが好き的には」(ラジオのインタビュー)
「芸術的にまで高めよう!」(NHK)。「芸術の域にまで」と言いたかった?

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23の節 助詞5

2005/09/04 00:08
<「とは」>

 さて、「とは」である。かつては「は」だけですんだのに、なぜ「と」を加えて「とは」言わなくてはならないのか。
 いま、かつては「は」だけですんだと言ったが、以前から「は」と「とは」の二つがあり、それぞれはニュアンスを異にしていて、皆がこの二つをきちんと使い分けていた。ところが今は「とは」だけになってしまった。
 詳しくいえば、「は」が誰でもお馴染みの既知のものを主語として提示するときに使うのに対して、「とは」は未知のものを提示しようとして言う「というのは」を短くつづめた言葉であって、今でも言葉の使い分けができる人は、「と」と「とは」をきちんと使い分けしている。
 人々は言葉の微妙な違いというものに頓着しなくなってしまったのか。言葉の使い分けは、どんな時代にも必要なことであろうに。現在、多くの識者が憂慮する日本語の貧弱化が、こんなところにも現われているのだろうか。
「は」でよいところに「とは」を持ってきた例は次のとおり。

「その手口とは」(日テレ)
「・・・された理由とは一体何でしょうか」(日テレ)
「この部屋にただよう空気とは他では感じることができません」(日テレ)
「果してその素顔とは」(TBS)
「その染料とは何か」(NHK)
「・・・の鋸は切れ味抜群。その秘密とは・・・」(NHK)

 「とは」がしっくり来る例も挙げておきたい。
「そんな成功した人たちの波乱にみちた人生とは・・・」(テレビ東京)
「武蔵が始めて知る死の恐怖、鎖り鎌とは・・・」(NHK)
「千年王国思想とは、一体どのような・・・」(『中国、一九○○年』)

 助詞は1または2音節のごく短い語であるためか、勝手気ままな使われ方をすることも多い。かつて拾ったその甚だしい例をここで二、三紹介しておきたい。

「到るところには」(テレ朝)。「到るところに」の誤り。
「・・・を阻止をしました」(NHK)。「・・・を阻止しました」でよい。
「父親とは子供たちに金を渡していました」。「父親は子供たちに・・・」の誤り。
「『覚えない支払い』請求書急増」(朝日新聞の五段抜き見出し)。拙劣な見出しの見本。「覚えのない」と、できれば「身に覚えのない」とすれば格段によかった。やたら語句を省けばよいというものではない。

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22の節 助詞4

2005/09/03 00:20
<「へと」>

 先ず、「へと」については、「と」が「へ」にくっつけば、「へ」は方向や到着点を示すだけのただの「へ」ではなくなる。ここで「と」は、「どこそこへ」とか「何々へ」のような「へ」を含む句を一体として扱って、そのあとにくっつける強調あるいは強意の語なのである。
 例えば「衰退から消滅へと」では、この「と」は「衰退から消滅へ」を一体と考え、これを後につづく語句につなげる助詞「と」なのだ。ここでこの「と」には「というように」との形容句的な意味が含まれていると思ってよい。

「又八は江戸へと辿りついた」(NHK)。ここでは「へと」でも「へ」でもなく、「に」を使って欲しいところ。
「熊野の神々が滝へと里帰りするのです」(NHK)
「機は平壌順安空港へと舞い降りた」(テレ朝)

 テレビから耳に飛び込んでくる若い男の声。
「果してその正体とは」
 ついこの間まで、それは「一体その正体は」だった。
「果して」と「と」がひどく耳障りなのだ。何故だろう。自問自答してみよう。
「果して」は、本来の意味とは違った意味になっている。
 かつては、日本語に熟達している自信のある若者ならば、「果して」は、「予想どおり」の意味で使うか、疑問や仮定の語があとに伴った使い方をしたし、自信のない若者は、使い方の難しい言葉として、使いたがらなかった。
 「果して」の語に格好よさを見た今の青臭い若造たちに、かつての若者の謙虚さはなく、本来の意味と使い方を理解する能力もなく、彼らは、ほしいままの意味と使い方を持ち込んでこの語を使っている。
 馬鹿の一つ覚えで覚えた言葉なのである。平凡、低俗な色のしみついた言葉とはどこか違った、一皮剥けた色合のある言葉をいったん耳にすると、すぐさまそれに飛び付き、本来の意味や使い方にはお構いなしに勝手にそれを使ってしまう無邪気さ。
 並み居る者どもよりは自分を一頭地を抜いた人間に見せようとがんばる苦労は、この競争社会にあって同情に値するとはいえ、よくよく賢くならないと、このような言葉の使い方一つで足を掬われることになりかねない。

 大方もお気付きのように、このような馬鹿の一つ覚えの流儀で彼らが使う言葉は、ほかにも数多くあって、ほとんど枚挙にいとまがない。
 これと対照的に、成長期に日本語の言語感覚をやしなう恵まれた環境にあった前々世代までの普通の日本人は違っていた。彼らは、高学歴者などが使用するしち難しい言葉は、それらを使う自信はないとしてことさらに避ける謙虚さをもっていたし、聞き知ったばかりに無闇にまねて使用することの愚かさを知っていた。
 現在の世代にそのような美徳をもつ者はすくない。彼らの間では、「果して」のほかにも、「・・・ならでは」、「・・と思いきや」などが大はやりだ。その陰で、分かりやすく易しい言葉が退化させられようとしている。これら背伸びの象徴のような用語が、いずれおかしな意味や使い方をされるようになってしまう危惧はなくならない。

(9月2日の記事を飾った神社は、大分県にある宇佐神宮)
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21の節 助詞3

2005/09/02 00:20
<IMG SRC="http://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/005/006/07/1/200509_img_1.jpg" HEIGHT="240" WIDTH="320" ALIGN="right" CLASS="up-image" ALT="画像" TITLE="画像を等倍で表示します" ">
 新酒の初絞り風景を探訪するテレビ番組(TBS)で、若いレポーターが、
「いま何が行なわれているんですか」
 因みに、ここで「いま何をしているんですか」とは若年世代は言わない。「行なう」という大仰な言葉が好きなのである。いや、「行なう」しか知らないのかも知れない。何でも「行なう」なのである。
「いま絞りがやってまして・・・」
 こう答えた年配の人は、無意識のうちに間違ってしまったんだろう。というのは、「行なわれて・・・」と尋ねられたから、つい「絞りが」となったのに違いない。

「こちらが社長さんてどこにいらっしゃるんですか」(日テレ)。???。多分「こちらの社長さんは・・・」のつもりなんだろうけど。
「厚生大臣を在任中・・・」(某党幹事長)。「厚生大臣に」と言いかえるのを待ったが、なかった。
「ごみの方はこちらにお出しください」。この言い方、定着しすぎて、わかるのが忌々しい。方向を示す用語がなんでこんなにもて囃されるのか。たぶん断定的な言葉が嫌われて、曖昧さで包みこむ言葉使いが好かれているのだろう。

<助詞の重ね使い>

 次に、このごろ特に耳障りなのは助詞の重ね使いだ。「へと」、「とは」など。「へ」だけでよいものを「へと」と言う。「は」だけでよいものを「とは」と言う。
 これも助詞の用法に自信のない人たちが編み出した新造語と言えなくもない。新造語もまったく新しい、既にあった他の言葉と紛らわしいのでなければ、その限りで許されもしよう。
 ところが困ったことに、この場合紛らわしくなることがあるのだ。「へと」も「とは」も、昔から長く使い続けて来た、それぞれ特定の意味あいをもつ日本語として既に存在しているのである。それでも、これらの新造語、「へ」でよい筈の「へと」、「は」でよい筈の「とは」が、定着してしまってよいのだろうか。
 大人たちが前の世代から受け継いできた「へ」と「へと」も、「は」と「とは」も、意味するところの違いは微妙である。この微妙な違いが未熟な日本語しか使えない若い世代は分からずにいる。無理もないことではあるが。

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20のふし 助詞2

2005/09/01 00:35
 人々が助詞を択ぶのに苦労している場面に出くわすことは多い。日本語が未熟だとはいえない大人ですら、そのような経験をするところを見れば、これはあながち、助詞の用法の難しさからばかり来るものではなさそうである。それは、日本語が未熟な連中のいい加減な助詞の使い方に知らず知らず影響を受けていることもあるかと思われる。
 助詞には、つい言い間違う、使い間違うということも多い。たいていは話の前後のつながりから、話し手が言いたいことの察しはつくので、聞き手は助詞が違ってるなと思いながらもそのまま済んでしまう。しかし、若年層におおく見られるように、間違った使い方をしていながらそれに気づかず、自分は正しい使い方をしていると確信している者も少数ではない。困ったことである。
 次に挙げる助詞の誤用例についても、上述のうちの何れであるかを一々指摘するのはむつかしいので敢えてそれを避けるが、間違いは間違いであることは間違いない。

「ここには土産物屋をずらりと並んでいます」。テレビのリポーターなどがよくやる、「を」と「が」の取り違えの典型例。「が」というところで「を」といい、「を」というところで「が」というのは、リポーターや一般庶民ばかりではない。老練のアナウンサーまでがそれをやってしまう。
「前々から美川さんと握手して欲しかった」(NHK)。「と」と「に」
「物が食べている」(日テレ、思いっきりテレビ)
「火をかけたら」(NHK)。「を」を「に」で置き換えればよいことがすぐ分かるからこれはいいのだが、若者には「に」を敬遠して代わりに「を」で通そうとする者が多く、時として意味不明となる。
「ボスが何かをひらめいた」(NHK)。「ボスに何かがひらめいた」とすべき。
「詳しくはNTT東西をご確認下さい」(接続業者の宣伝用ちらし)。上の「火を・・・」の例と同類。
「死を直面して・・・」(日テレ)。右に同じ。
「後からも気持が感じる」(あるCM)。多分この「が」も正しくは「を」。

「このメッセージへの変更を保存しますか」(アウトルック・エクスプレス)。人泣かせなのはパソコンの画面から突然目に飛び込んでくる操作説明の文字列である。ここでは敢えて日本語とは言わず文字列と言ってしまおう。そうしたいほどに、そこに出現した文字列の意味がまったく汲み取れないことが多いのだ。これは日本語なま噛りの外国人が英語から日本語に翻訳したつもりの文字列なんだろうか。実は右の操作説明の意味は今もってわからない。
 このような読み解きの困難なネットサイトの記述も、おいおい改善が進むことであろうが、さてそれがいつのことになるやら。今もまだ、「から」とか「より」が、「に」の意味に使われているらしい。長大息したくなるのは筆者ばかりだろうか。

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19の節 助詞

2005/08/31 00:11
■57番の窓口は?■

 昨今の若者は「てにをは」が苦手なようだ。つまり助詞の正しい使い分けができなくなっている。助詞は、英語での前置詞と同じく、日本語の基本の一つをなすもので、話の辻褄があわないことを「てにをはが合わない」と言うくらいに、これが乱れると、到るところで流れるような意思の疎通がとぎれてしまう。

 ある時みずほ銀行の窓口の一つで預金通帳の更新を依頼した。
若くて美しい女子行員が満面に笑みを浮かべながら、
「57番でお渡ししますので、しばらく坐ってお待ちください」
と言って、名詞大のプラスチック製のカ−ドを渡してよこす。
 待合のソファに腰をおろす前に、さて57番の窓口はどの辺にあるのだろうと、広い店内をずうっと見渡した。ない。どこにもない。第一、57番とは途方もない数字である。立往生の体でいると、近くにいた警備員が助け船を出してくれた。
「57番の窓口はどこですか?」
「えっ、そんな窓口はありません」
「???」
「ちょっとそのカ−ドを見せていただけますか?」
手に持ったカ−ドを渡す。
「ああ、それはこのカ−ドの番号ですよ。この番号でお呼びしますから、それまでこの辺でお待ちください」

 英語の前置詞の使い方にも難しいところがあるが、助詞も一つとり違えると、場合によってはとんでもない事になってしまう。上の例は、笑ってすませるからまだいい方である。
 それでは、上の場合どこが問題だったのか。やはり「57番で」の助詞「で」がいけなかったのか。それもある。もっと適当な助詞があった筈だ。だが思うに、ここではむしろ女子行員の舌足らずが、意思の疎通を欠くうえで大きかったのではないか。必要な言葉を端折って話すのも、若い人たちに見られる顕著な傾向である。そこにも彼らの日本語を使う上での自信のなさが見て取れる。
 彼女は「この番号でお呼びしますので・・・」とか「この番号を使ってお渡ししますので・・・」とか言ってくれればよかったのだろう。

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18の節 様々なる迷路3

2005/08/30 00:15
 あながち言い間違いともいえない言葉の誤りは、なにもテレビに限ることではない。筆者の耳に飛び込んできたその他の数例を序でながら挙げておきたい。

「通り一遍倒」(と、40才前後かと思われる山口県のある市長。NHK)。そこは普通「通り一遍」と言うところだった。
「自民党と公明党のくさびの役割を果してきた・・・」(テレ朝「TVタックル」)。「かすがい」では?
「溜飲を下す」(ある一流大学の学生。テレ朝)。「溜飲がさがる」では?
「すごい圧倒されますね!」(直木賞受賞女性作家)。たしかに世間では「すごく」を「すごい」と言うようになってしまっているが、作家ならば、ここでは「すごく」と言ってほしかった。いつぞや、ピンポンの福原愛ちゃんが、何かの折りにテレビの記者から対戦相手の感想をきかれて「すごいすごいと思いました」と言って困った顔を見せたのを覚えている。彼女はまだ若いのに言葉を択んで話をする聡明さをもっている。筆者がその場に居合わせていたならば、そこは「すごく凄いと思いました」と言えばいいのだよと教えてやりたかった。
 川柳を「ことわざ」と言ってのける若手代議士。
「金曜まで研修で席を外している」(ある中堅旅行会社の若い社員が同僚の所在を尋ねられて)。これでは何のことか分からなかったので、よくよく問いただしてみたところ、金曜まで出社しないということだった。「席を外している」は彼の「馬鹿の一つ覚え」の言葉の一つだったのだ。

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17の節 様々なる迷路2

2005/08/29 01:23
 大勢の番組参観者に向かってアナウンサーが発した第一声。「並み居る人がいますね!」(NHK、「昼時日本列島」)。これを聞いて、たまらず噴飯。「大勢の方がいらっしゃいますね!」でいいのに。
「一言を表わすと・・・」(民放)。「一言で言い表わすと・・・」が出てこない。
 扇形グラフの見方を説明しながらしながら、64%とあるのを見て「6割近く」と言った若いアナ(TBS)。「6割近く」は6割より少ない数字を指すことを知らなかったらしい。彼は「6割に近い」と言えばよかった。
「金がないのはやまやまですが・・・」。???

 体育館に集まった老人のグループに向かって「平均年令とかを探りたいんですけど・・・」(と、日テレのアナウンサー)。「とか」も御粗末だが、「探りたい」もないのでは?「知りたいんですけど」とか「教えていただきたいんですけど」と言ってはどうか。
「死後一日頃たっている」(テレ朝)。「ごろ」?
「ここは幹線道路から一個入った裏通り・・・」(TBS)。「一個」?
 どの項目も9点か10点という点数表。これを見て「すべて8点以上」(と、NHKの女子アナ。「以上」はそんな意味ではないのだが。
「感心事」(テレ朝の画面に現われたテロップ)。「関心事」では?

「いずれの二つの店も・・・」(テレ朝)。店が四つある?それとも「二つのいずれの店も」のつもり?
「手を握ることはおろかキッスすらしたことがなかった」(日テレ)。それって、逆じゃないの?
「生死をさまよった」(テレビ東京)。「生死の間をさまよった」では?
 時は春なのに「今日は小春日和」(ワイド番組)
「一枚の絵にしたためた」(NHK、「ゴッホ、黄色い夢の町」)。「したためた」?

 なめらかな表面をなでながら「すーっと手が流れて行きますね」と言ったリポーターの若い男。思わず爆笑。「すべすべですね」とでも言えばいいのに。
「そそられて」。この語をたまたま覚え知ったが使い方は知らないままに使っている好例。「気をそそられて」とでも言わないと、聞いて分からないことが多いのに。
「火事より七日前」(NHK)。この言い方には抵抗感がある。「火事の七日前」と言ってほしい。
「・・・を教えてくれた方です」(民放)。「方」を使うなら「教えていただいた」ではないの?「くれた」なら、精々「人」だ。 このように、今日このごろ、「奴」などは「者」に、「者」は「人」に、「人」は「方」に、順送りに偉くなってしまった。従来、「方」と言って奉った人々にはどんな言葉を使えばいいのだろう。

「被害者の方も加害者の方も・・・」(若い女性タレント。フジテレビ、ニュース番組)。「被害者も加害者も」と単刀直入な言葉づかいができないのは止むを得ないにしても、もともと尊敬の意味がこもっている「方」をここで使うのはやめたい。
「車が盗まれようとしているのを見て制止させようとしたが、男は振り切って行った」(テレ朝系)。これだけでは、誰に「制止させようと」したのか不明。「制止しようと」したのなら分からないでもないが。
 地震で列車の運行の見通しが立たずにいることを伝えたあと「キップの払い戻しをする人もふえてきています」(仙台駅から。NHK)。「払い戻しをする」のは乗客の方ではないのに。
「いやが応でも」(NHK)。そこは「いやが上にも」と言うところだった。

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16の節 様々なる迷路

2005/08/28 00:27
■「こちら」は「どちら」?■

 ある大手の旅行会社に電話でマニラまでの往復格安切符を予約したときのことだ。
「もし分かるなら、ついでにお聞きしたいのですが、いまマニラの気象状況はどんなでしょうか」
と尋ねると、予約の注文に応対していた若い女子社員は、一旦引っ込んだあと直ぐ戻ってきて、
「こちらは・・・」
と切りだしたので、あわてて、
「いや、こちらではなく、あちらマニラの方ですが・・・」
と言ったところで気がついたのだが、彼女はマニラのことを「こちらは」と言ったのだ。
 いったい若い人たちの間ではどうなっているんだろう。彼らは、ここで「こちらは」と言われてもマニラのことだと難なく受け取ったのであろう。さすれば、彼らは日本のつもりの「こちら」とマニラのつもりの「こちら」をどうやって判別するのか。誰か教えてくれる人はいないだろうか。

 この「こちら」をNHKが気軽に使う。正しい日本語の維持普及が公共放送としてのNHKに期待される大きな任務の一つであろうに、そのことを忘れたかのようである。
「皆さんからいただいた手紙もこちらのように沢山あるんですよ」(NHK、「朝のホットモーニング」)。手紙の山を見せながら、若いアナウンサーが臆面もなく言う。
 朝10時に始まるNHKの料理番組では、若い女のアナウンサーが「こちらになります」を連発してはばからない。
「こちらの方への」という言い方も出てきた。これで何を言いたいのか今ひとつ分からない形容句である。これはNHKではなく、ある民放のリポーターの口から出た言葉だが、この種の乱脈が、実体のない権威を振りかざす一方で世に阿ることに汲々とした放送業者によって国中に弘められるのだ。恐ろしいことと言わねばならない。

 民放はおろかNHKもが滑稽としか言いようのない科白を公共の財産である電波で撒き散らす。とくに事件の現場などから映像を追いつつ報告する若いリポーターの日本語には、しばしば酷いものがあって思わず耳を覆いたくなるのだ。
 視聴料を徴取して営業するNHKならば、アナウンサーなどの使う日本語を厳正に見張っている部署があって正しい日本語の流布に一役も二役も買う役割を担わされていそうなものだが、果してどうか。
 その機関では、アナウンサーや彼らの読み上げるニュースなどの原稿書き、それに件のリポーターたちの減点表を張り出して、甚だしく成績が悪い者は出番をなくするよう勧告するくらいの権限は持たされてもいいのではないか。

 そればかりではない。職員を採用する際に行なう入社試験の科目は日本語だけにしてはどうだろう。日本語のみならず一つの言語を使いこなす力というものは、一朝にしてつくものではなく、いわば母親から伝わる絶対語感に始まる能力だからだ。しっかりした母国語能力の持ち主であれば、その他の科目で審査しようとする知識や能力は必要に迫られればいくらでも身につける力を持ち合わせている筈だ。因みに、このような入社試験は、若者の日本語能力の向上にもおおいに資する筈である。
 さて、次にそのような発言例の数々をもう少し紹介しておきたい。

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15のふし 助動詞・可能2

2005/08/27 00:33
<必要のない可能語を使う>

 次に、その必要もないのに可能形で言わないと落ち着かない風の言い回しがある。大抵は間違いを物ともせず無意識に口にしているんだろうが。

「自分の考えだけで家が売れるかどうかを決める」(NHK、「生活笑百科」)。これは「家を売るかどうか」ということなのであろう。
「メ−ルを送るのに子供に聞かないで(教えてもらわないでの意)すめるように」(NHK)。かつてはみな「聞かないですむように」だった。
「組織のなかでどれだけ職員を活用していけるかに懸かっている」(時事問題解説者)。これは「いくか」で十分。
「セメントはしっかり固まることができます」(NHK)。「固まります」で十分。
「愛していると言い切れる糸永さん」(日テレ)。「愛していると言い切る糸永さん」の間違いか。

「次は上体をゆすれる運動です」(NHK)。ここでなぜ可能の助動詞を挟まなくてはならないのか理解できない。「上体をゆする運動」ではいけないのか。
「跳びはねていただけるだけで効果があります」(NHK)。ここではご丁寧にも「いただく」という敬意を表わす語句と可能の助動詞をセットにして使っている。効果のことを言うのに何もそこまですることはない。煩わしいだけのことだ。どちらも要らない。ここは「跳びはねるだけで効果があります」でよい筈。
「もしお前がおれ(の成績)を抜けたら・・・」(日テレ、「行列のできる」)。これは「抜くことができたら」と言っているのだろうか。無理に可能の形にしなくても、「抜いたら」でもいいのだが。

「募金にご協力いただける方は・・・」。「ご協力いただく」はまあいいとしても、ここでも「ける」を取って「募金にご協力いただく方は・・・」と、すっきり言ってもらいたいもの。
「ボールにあやつられるのではなくてボールを自由自在にあやつられる人になってください」(少年サッカーのコーチ。NHK)。この訓示、どこもおかしいところはないが、後の可能の「あやつられる」は「あやつる」の方がよかった。
「こうするとどこにでもくっつくことのできるテ−プ」。正統な日本語(というのは、日本語らしい日本語の意。これが大切)が使える中高年なら、こう言うところだ。「こうするとどこにでもくっつくテ−プ」。「ことのできる」は要らないのである。これがないとなぜ不安なのか。多分、動詞の連体形に使い慣れていず、日本語の習得が生半可にしかできていないからだろう。日本語を学ぶ外国人のうちの中級程度の人たち並みか。

<ら抜き>

 助動詞については、なぜから抜きばかりが持て囃されるが、ここにも二、三、その例がある。
「火(熱のこと)を十分に行き渡せる」と、若い女性料理研究家。
「今からでも連帯保証人を立てれる」(NHK)
「・・・の味を含ませ」と言ったあと口ごもってしまった初老の女性料理研究家。「られ易い」とでも続ければよかった。

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14の節 助動詞・可能

2005/08/26 00:33
■「やれることができる」■

 受身の濫用、多用に加えて、とくに若い人たちの間に顕著なのは、可能の助動詞その他、可能を表現する用語を何がなんでも使おうとする傾向である。これはもう、むしろ乱用と言っていい。

<ご丁寧にも可能語を二重にする>

 先ず多いのは、「やれることができる」といった類の、二重に可能表現用語を使用する傾向である。日本語を自在にあやつる自信がない者に多い傾向のようにも思われ、敬語表現の二重化傾向とも通底するところがあるようだ。

「このアレルギーはどなたでも起りうる可能性があります」(日テレ)
「思いっきり泳げることができた」(と、オリンピック選手。NHK)
「(・・・の機会を)提供できることができます」(と、ある国会議員。テレ朝)。「提供することができます」と言えばよいのに、それが出てこなかったようだ。
「その不安をいくらかでも解消できられるような・・・」(NHK)
「走れることができる」
「勝ちを取れることのできた方が・・・」
「お便りいただけることが可能になります」(と、新製品展示会の説明員。テレビ東京)。正直、何を言いたいのか分からない。こんな怪しげな言葉しか使えない社員を抱えている会社の製品など買う気になれない。信頼感が持てないのだ。
「見えることができます」。ひょっとすると、これは可能表現が二重になったのではなくて、「見える」を「見る」の意味で使ったのかも。
「ファンの皆様のお陰でここまで来れることができました」(ある歌舞伎役者。NHK)「・・・から慰謝料を取れる可能性は・・・」(日テレ)
「馬に乗れることができたら・・・」(NHK、「スタパ」)

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13の節 助動詞・受身3

2005/08/25 00:25
「垣間見る」までが、若年層の手にかかると「垣間見られる」になってしまう。そりゃないよ。垣間見ることはあっても垣間見られることはないのだ。成句がどういうものかが分からなくなってしまっている新日本人。
「探検、溶かされた大地」というNHKスペシャルの表題を見た。「溶かされた大地」って何だろうと訝しく思ったのは筆者だけだったろうか。
 NHKの高校野球実況で「それが徹底されています」という声を聞いたが、文脈の流れからは「徹底しています」でなくてはならないところだ。
「何一つ残されていなかった」は、ひとつ前の世代でも「何一つ残っていなかった」としか言わなかっただろう。

 今の世の中、もっと問題なのは、「残っていた」も「残されていた」も、ぜんぶ「残されていた」で片付くらしいことだ。このことは「残る」という動詞に限ることではない。実は、人々は言葉のこまかな使い分けができなくなっているという、もっと大きな問題が背後に横たわっている。
「こちらから見えるのが山古志村です。住宅が倒されているのが見えます」(NHK)。画面に映っているのは取り壊しが進行中の住宅ではなかった。「住宅が倒れている」と素直にいえば、テレビを見ている人の耳が自分の目を疑うことはなかっただろう。受身を安易に使ってよいというものではない。
 続く地震報道で「私たちの町は復興されています」との科白には笑ってしまった。これ「復興しています」じゃないの?

 さて、次の例は受身か敬語か文字の上からは判別困難。
「キャンペーンを実施されている場合はキャンペーン料金を・・・掲載しております」(NTTの宣伝ちらし)。「キャンペーンを」とあるから「実施されている」は敬語だと取りあえずは理解することになるが、そこはご用心。今の時世、「が」と「を」の取り違えが珍しくない。もし「キャンペーンを」が「キャンペーンが」の間違いであったならば、「実施されている」は受身ということになる。

 こうした受身表現好みの広がりというか、受身の濫用傾向は、子供たちが事実上強制されている英語学習の影響を抜きにして語ることはできない。
 基本的に主語の省略がない英語では、受身表現はふんだんにあって何ら異とされることがない。これに対し、主語の省略がめずらしくない日本語では、受身表現はどうにも馴染まないのだ。
 ところが、中高校の英語の授業時間に、受身を使わざるをえない英文和訳に慣らされた子供たちが、日本語を話すときも受身を多く使うようになるのは、必然の成り行きかともえる。

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12のふし 助動詞・受身2

2005/08/24 00:23
 もともと受身の表現は日本語にはよく馴染むものではなく用例も少なかった。自然に流れでる日本語としては、受身はどこかぎこちないものだった。だからかつては、
「この庭にはに二百本の梅の木が植えられています」(NHK)は、「二百本の梅の木が立っています」と素直な言い方をしたし、
「工事が進められていました」より「工事が進んでいました」と言ったものだし、
「(フライは)ちゃんと揚げられています」(NHK、「ためして合点」)などとは言わず、「ちゃんと揚がっています」と言ったものだ。

「(京都の大文字の火祭りは)どうやって準備されているかご存じですか」(NHK)は、「どうやって準備しているか」が断然いい。
 NHKの台風情報などで、「どこそこに何々警報が出されています。・・・出されています。・・・出されています。・・・」と、受身の動詞が延々とつづく。聞き苦しいことおびただしい。警報を出すところは決まっているのだから、「何々警報が出ています。・・・出ています。・・・出ています」でよいのに。その方がずっと耳に心地よいのに、そうはならない。
「引っ越しの準備が着々と進められている」(テレビ東京)。このような「・・・する作業が進められている」とか「・・・が調べられている」も、「・・・する作業を進めている」とか「・・・を調べている」の方が、頭にすっと入って格段によいことは言うまでもない。
 かつては「・・・が続いている」と素直な言い方をしていたものが、この頃は「・・・が続けられている」と、なぜか受身でしか言わないようになった。
 NHKのテレビ番組に、若い女性と年配のご婦人との会話に興味深い一こまがあった。「仕事しやすいように考えられて作った・・・」と若いほう。それを「考えて作った・・・」と受ける年配の女性。
「その答えは銀河の中から見つけだされました」(NHK)。「見つかりました」と言えば美しい日本語になろう。
「江戸時代たびたび襲われた大飢饉」(テレ朝)というのもあった。大飢饉が何に襲われたと言うのだろう。「襲った大飢饉」でなければ間違いではないだろうか。
 次回で、いま少し続けてみよう。

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11の節 助動詞・受身

2005/08/23 00:17
■「私の中で思い浮かばれなかった」■

 近年の若い世代は、受身の助動詞を使ってしか物が言えなくなってしまった。それが高じて次のような珍妙な言い方にお耳にかかることもめずらしくない。

「・・・症候群が発症される」(NHK)
「私の中で思い浮かばれなかった」
「この店でいま飛ぶように売られているのは・・・」(TBS)
「いま高橋由伸にホ−ムランが打たれました」(日テレ)
「ご覧ください。お米がつかれています。お餅が焼かれています」(テレ朝)
「ここに手作りの惣菜が見られています」(NHK、「生活ホットモ−ニング」)
「木が時々吹いてくる強風によってゆられることがあります」(日テレ)。「ゆらされる」か又は「ゆすられる」の積もりだったのを言い間違えたのか。まさか「ゆれる」を無理やり受け身にしたのではあるまい。
「温度はすでに・・・度に上げられている」
「・・・はここでしか見られることができません」(NHK、「お早うコラム」)。「見ることができません」とどうして言えないのか。不思議な気さえする。
「色々なものが伝われています」(NHK)。自動詞「伝わる」を無理やり受身の形にした珍品中の珍品。

 ここまで異様さが突出することはなくても、他動詞の能動態や自動詞で表現すれば無理なく言えるものをどこまでもバタくさい受身で言わなければ気が済まない風の若者は、限りなくふえる一方だ。無勢が多勢に押されるのは世の習い。今やよい年をした大人までがそれを真似るようになった。情けない有様である。

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10のふし 動詞9

2005/08/22 00:29
<これでよかったですか>

「これでよかったですか」の類が猖獗をきわめている。たしかに現在に生きている過去を似た言いまわしで話すことは従来からあった。しかし、現在を過去で言い表わすことなど思いもよらなかった筈だ。それでも、この表現法を聞き付けた子供が本能的にぼかしの話法として使えると思ったのだろう。それは瞬く間に全国規模となっている。
 念のため、以前からの正しい用例を挙げておきたい。
「ただ今娘はおりませんが、何かご用がおありだったのでしょうか」
「この電話ではよくなかったかしら」

<自動詞で言い切るのは嫌!>

 自動詞を使いたがらず、他動詞に助動詞を付けて言おうとする嗜好のようなものが若年層にはある。日本語として間違いではないが、美しい日本語にはならない。

「口を封じさせることは無理・・・」(日テレ)。「口を封じる」と言えばよいところ。この方が素直でずっとよい。
「将来の夢は娘を歌手にさせることです」(NHK、のど自慢)。「することです」でよいものを。もし「成る」を使うならば、そのときは「ならせる」となるが。
「このスペースに収められなくてはならない」(NHK)。アナウンサーたちも「収まらなくてはならない」と上手に自動詞を使うことが少なくなった。
「彼女を待たせているとき」と言った彼は、実は彼女が来るのを待っていたのだった。彼の頭の中で「待つ」と「待たせる」はどう絡み合っていたのか。真相はおそらくこうだろう。彼は「待つ」という自動詞のあとに何かくっつけないと不安だったのだ。

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9の節 動詞8

2005/08/21 00:24
「今日は5:00まで開館します」(と、鎌倉中央図書館の二階レファレンス・カウンターの立て札)。気をつけて見ると「開館します」の上に黒のマジックで「あいています」と書いてあったので苦笑。「開館する」という動詞の意味が、「いついつに館の大戸を開く」なのか「空けている」なのか、どうもはっきりしなくなって来ていて、これにはNHKあたりも苦労している様子が見て取れる。
「譲り渡す」というところで「譲り受ける」と言ったまま、最後まで訂正もしなかった若い女子アナ(NHK)
「その絵は売り切れていた」(テレビ東京)。これは「その絵はすでに売れていた」だろうに。新製品の売出しではないのだから。
「胡錦涛がひた隠す第二の天安門事件」(文藝春秋の記事の表題)。「ひた隠す」という動詞があったとは聞かず。「ひたすら隠す」か「ひた隠しに隠す」ならば、すんなりと耳に入るが。

「2歳まで控えて」(朝日新聞の大見出し)。控えてって、何を?と言いたくなってしまう。実はいま「控える」という若者の新造語が大流行なのである。もともとあった控えめにするという意味の「差し控える」の「差し」を飛ばして「控える」だけを同じ意味で使っているのだ。彼らの貧弱な日本語能力では、もともと「控える」という言葉が別にあって、「差し控える」が持つ意味とは別のいくつもの意味で使われて来たことなど、思いもよらなかったことだろう。新造語というしかない。この頃はこのくらいの見識も失おうとしている大新聞、という感想も禁じえない。
「・・・のチームが甲子園に向けて出発しました」(NHK)。「向かって」では?

「室内には家具がちりばめられている」(民放)。彫って宝石などをはめ込むという意味でしか使われてこなかった「鏤める」が全く別の意味で使われはじめ、中高年世代をすら困惑させる。それは撒き散らされるという程の意味で若い層を中心に大流行である。高度の工芸品など、その表面にはめ込まれた宝石や金銀がまるで撒き散らされたように見えるところから誤解が生まれたのであろうか。何も知らない若年者には「ちりばめる」の語の響きがよほどお気に召したか、それならそれでいいじゃないか、本来の意味など知ったことではないというのであろうか。さて、本来の意味の「ちりばめる」はどうなるんだろう。二つの意味が平行して生き延びるのだろうか。それとも本来の「ちりばめる」は消滅する?

「次の国語の問題は読むに到らなかったらしい・・・」(と、とある学力試験の試験場からのレポーターの声。日テレ)。すぐには何のことか分からず、ややあって「読む時間がなかったらしい」と言いたかったのだと判明。このレポーターの国語力もかなり問題ではなかったか。それとも「時間がない」は平凡すぎて嫌われたか。
「新しいユニホームをまとって試合に臨む・・・」(フジテレビ)。ユニホームは晴着なのかな、見せ物なのかな。
「・・・を通じまして」(NHK、オリンピック実況)。これは「・・・を通りまして」というところだった。
「このまま(この料理を)いただいていただきます」(日テレ)。丁寧に言おうとするあまり、このような思わず笑ってしまうような表現に。

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8の節 動詞7

2005/08/20 00:20
<ある、いる>

 若い人たちには「ある」と「いる」の使い分けも出来なくなっている者が多い。
「国宝としていながら・・・」(と、司会助手。NHK、「日曜美術館」)。「国宝としてありながら・・・」と言うところだった。
「白神山地、クマゲラあっての遺産」(朝日新聞の4段抜き見出し)。「クマゲラいての・・・」では語調に強さが乏しいと思ったか。でも、「クマゲラいての・・・」でなくてはならない。

<言葉は生きもの。さはさりながら>

 異様な日本語ははびこる一方である。それに多くの人が困惑しているのを尻目に、この混乱に加担する役人も少なくないし、言葉は生きものとうそぶいて何もせず、というより何も分からないのか、乱脈化に一役買っている事業集団もまた少なくない。
 さて、日本語の文法については、正直に言うが、筆者もとても自慢できるほどの知識を持ち合わせている訳ではない。基本すら十分に分かっているかどうか、やや心もとなくもある。それはさておき、文法は民族が自然に使っている言葉の法則性を探って得られた知識だ。言語学にも関係の深い、純然たる社会科学の一分野である。ということは、法律家の卵が記憶力を大いに頼りにして学ぶ法律のような人工の産物ではないということだ。
 それなのに、英語を覚えるのに多かれ少なかれ必要とされる英文法を教えようとする本が書店の棚には目白押しに並んでいるのに引きかえ、日本語文法の本は影が薄いことおびただしい。冷遇は歴然としている。
 教育関係者も、日本語の乱れを嘆きながらも無為無策で手を拱くしかないままでいるのは困る。ほんの基本だけでいい。日本語文法を子供たちにもっとたたき込むことを考えたらどうか。
 作家が、言葉は生きものだと言って、ことさらに文法へのこだわりを捨てようとする態度を見せるのは理由のないことではない。彼らは生きた日本語を知っている。彼らは日本語の基本を知っている。言葉を換えれば、彼らは日本語らしい日本語がどういうものかを知っている。それが作家なのだ。だがここで一こと釘を刺しておきたいのは、生きた日本語はでたらめな日本語とは別物だということ。日本語を知らず、文法は軽視するためにあると嘯く、いわゆる「作家」が多いのも事実ではあるが。
 作家でない普通の日本人の子供は、作家の言う「言葉は生きもの」に左右されてはならない。しっかり基本は学んでおいてほしい。
 ここで、日本語の奇異な表現を目にするまま耳にするまま、ここでもう少し列挙しておこう。ここでは動詞に重点をおいた例を挙げる。

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7の節 動詞6

2005/08/19 00:28
■「この料理をいただいていただきます」■

<かも知れない>

 このごろ流行る言い回しの中にどうしても気になるものが幾つかあるが、その一つが「いつ(あるいは、これに類する語)・・・かも知れない」だ。たとえば次のようになる。
「いつ死ぬかも知れない」(TBS)
「アメリカ人は自分がいつ陪審員になるかも知れないという思いがありますから・・・」(フジテレビ)
「いつ倒壊するかも知れない」
「いつ攻撃されるかも分からない」(日テレ)
「取り調べを受ければどんなボロを出すかも知れない」(テレビ東京)
「魔の手がいつ我々に降り掛かってくるかも知れない」(フジテレビ)

 これらが「いつ・・・か知れない」となっていれば安心する。
 上の諸例は、これらとは別に人々がよく、可能性はあるが断定はできないという気持で使う言い回し「・・・かも知れない」に影響されたのだろうと思う。だが、この「・・・かも知れない」の前には「いつ」はないことに注目しておきたい。
 ただ、どうしても「かも知れない」を使いたいなら、「いつ」の代わりに「いつかは」とすればよいのもありそうだ。

<「見る」という語>

「見る」には不思議な魅力があるらしく、特にその一つの変形「見える」を若い女が使いたがることを発見した。正しく使えられればいいのだが、しばしば滑稽というか珍妙というかおかしな使い方をする者がいて、それが決して少なくはないのだ。

「見るからに大丈夫です」(日テレ)。「見たところ大丈夫です」の表現すら伝承されなくなっている。いわんや「見るからに」のあとには否定的な言葉しか続かないことも。
「ここに手作りの惣菜が見られています」(NHK)。ここでは是非「惣菜があります」と言ってほしい。
「・・・を見かけていた」(テレ朝)。この言い方がないではないが、普通「・・・を見ていた」と言うところで、これを使う者がいる。「見ていた」では平凡すぎるのを嫌って、どこか一皮剥けた気のする言葉を使いたかったのか。だが、そこで「見かける」は使えないのだ。
「バランスが見えている」(と、若い女性栄養士。NHK、「今日の健康」)。よく聞いていると「バランスがとれている」の意味だった。
「それじゃ今から見えてください」。歯医者に予約の電話をいれたら、受付の女の子のこのような言葉が返ってきた。「来てください」が「見えてください」?
「・・・と見られる」(NHK)。「・・・と思われる」をやめ、このような言い方しかしなくなった若手のアナウンサーたち。

 面白いことに、その逆の事例があるのである。
「川を臨みながら育った」(と、リポーター。NHK、生活ホット)。ここでは平凡すぎるとおもったか、「見る」を避けている。しかも、「臨む」はここでは使えないことも分かっていない。

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6の節 動詞5

2005/08/18 09:32
<動詞より名詞が好き!>

 次に、動詞を避けて名詞を使おうとする傾向が、若い人たちにはある。どういうことかと言うと、普通は動詞を使うところを名詞で代替させる。これも動詞の語尾の変化がすんなり口から出てこない不幸な若い日本人たちが見つけた手法なのである。まずは見本をいくつか見てみよう。

「安心でおいしいお米を食べていますか」(生協が各紙に出した全面広告の大活字キャッチフレーズ)。「安心して」とはならない。
「何ときれいな水でしょうか。透明度もありますよ」(NHK)。奇っ怪な表現。「透き通っていますよ」が出てこなかったようだ。せめて「透明ですよ」とぐらい言ってもらいたいもの。
「『印刷』をクリックすると印刷が行なわれます」(NHK)。名詞のあとに「行う」「行われる」と続ければ、たいていは事足りるようで、「行う」が大活躍する。「印刷されます」とはならない。
「家族総出で種蒔きが行なわれます」(NHK)。ここでも「行う」となる。「種蒔きをします」との平明な言葉は遠ざけられて、このような大仰な表現が好まれていると見ることもできる。
「・・・の現れが出てる」(と、テニス解説者。NHK)。珍妙、とでも言いたくなる表現。「・・・が現われている」と言ったらどうだろうか。
 普通「売り切れ」というところを「完売」という。この例では、平易な言葉よりも成るべく高級そうな言葉を使いたいという気持もほのかに見えている。
「認められている」と言うところを「認知されている」という。それでは意味が違ってしまうのに。
「・・・では・・・からの自薦のみの受付けとさせていただきます」。これは「自薦だけを受付けます」の意だろうか。
「運転が見合わせになって・・・」(NHK、台風報道)。「見合わされて」の意?
「車中泊されてますか?」(ある自治体職員が停まっている車に近づいて。NHK)。「車に泊まっておられますか」の方がずっと垢抜けしていないだろうか。
「しばらくこのままでお待ちしていただけますか?」(TBS)。なぜ「待って」(動詞のみ)ではなく「お待ちして」(名詞+動詞)となるのか。しかも、「いただけますか」と続くから、敬語が不必要に二重になってしまっている。
「(この病院で)これまでにおかかりありますか?」(受付けの女の子)。「おかかり」?こう言われて、とっさには返事の口がきけなかった。「かかったことがありますか」とどうして言えなくなったんだろう。

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5の節 動詞4

2005/08/17 00:59
■「風が強くて倒れ込みそうになります」■

 この国の将来を荷なう人たちの日本語が心もとないのは、究極は中高年となった親たちの、ひいては老人として余生をおくる祖父母たちの責任だとも言える。とはいえ社会現象の面からみれば、全国規模の核家族の蔓延と地域社会の消失によってもたらされた忌わしい結果であることは疑いないし、また制度、政策の面からみれば教育関係者の国語教育軽視が原因の一つであることもまた否めない。それはそれとして、ここでは結果として現実に表面化している惨状をもう少し点検してみたい。
「てにをは」とともに動詞と助動詞が日本語の基本であり骨格であることは今更言うまでもないが、この動詞と助動詞にさまざまな混乱があることは大方の見るとおりで、その詳しい観察や指摘も世上こと欠かない。
 さしあたってここでは、町や村での普通の生活者でも中高年以上なら誰しもが眉をひそめるような混乱した使い方については特に立ち入らず、若年層の自信のなさを裏づけると思われる二つの言葉遣い上の傾向を取り上げてみたい。

<動詞一つでは心もとない?>

 その一つは動詞を二つ重ねる言い方である。実はこれは動詞の使用に自信がないことから来るのだとばかりは言えない。動詞が終止形で終わる時どこか断定的な気配のする言い方になるのを嫌って、それをぼかした言葉遣いに変えようとする衝動が日本人にあることは、よく指摘されるところだが、この動詞の二つ重ねも、それがなせる小わざだと言えなくもない。

「この薬はよく効いて行きます」(テレ朝)。どこへ行く?
「・・・して行きます」。大抵は「・・・します」で十分だと思うが。
「(風が強くて立っておれず)倒れ込みそうになります」(台風状況を伝えるテレビのリポーター。日テレ)。
「この番組は、このあと6時30分からお送りしています」。これは「お送りします」でと言ってもらいたい。
「織田軍の鉄砲隊の前に武田の軍団はつぎつぎと倒れ込みました」(NHK)。何で「倒れました」ではいけないのかな。
「応援用団扇を買い込む人もいます」(NHK、高校野球実況)。テレビの画面に映る観客はみな1枚づつしか買っていないのに。
「ロケット弾のまわりには砂袋が積み重ねられて・・・」(TBS)。「積まれて」だけでは不安なのかな。
「地殻の変動が止まって行くようには見えない」(テレビ東京)。「止まるようには」では不安?
「この回から寺原投手に変わって行く・・・」(テレ朝)。「変わる」だけではダメですか?
「主婦が農家を手伝って行くという取り組みです」(NHK)
「ニュースをお伝えして参ります」(テレ朝)
「警報、注意報からお伝えして行きます」(NHK)

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4の節 動詞3

2005/08/16 00:34
<何が何に成るの?>

 さて、「になります」に戻ると、今やこの当惑千万な言葉遣いが、「であります」や「です」に取って代る勢いをみせている。

 テレビ朝日の夜10時からのニュース番組に登場した若い男のレポーター(報告者)が声を張り上げる。
「後ろに見える黒い建物が首相官邸となりますが・・・」
 これを聞いて思えらく、
「えっ、それはとっくに首相官邸になっているけど?・・・」
 因みに、新しい官邸が平成14年の春に落成して首相官邸に「なった」。

 県立美術館に「朝鮮通信使展」を見に行った。第1会場の出口に大きな立て看板があって曰く、
「第2会場は3階になります」。
「成る」と「在る」は違うんですよ、館長さん。

「誇らしげになります」(テレ朝)。ここでの「なります」の用法は正しいが、「誇らしげ」と「げ」を使えば、自分のことではなく人のことを言っているように聞えてしまう。「誇らしく」と言ってほしい。
「今日のお客さんはこの方になります」(NHK)。すでにお客さんになった人が目の前にいるのに、ここで「なります」は止めてもらえないだろうか。

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3の節 動詞2

2005/08/15 00:22
■入管でしばし立往生■ 

 一週間ほどの海外旅行を終えて帰国。空港の入管で入国のスタンプを捺してもらおうと旅券を提示する。
 受け取った旅券をパラパラとめくっていた若い女の職員、
「ご出発は、いつになりますか?」
 こんなところで何故そんなことを聞くんだろうと訝しく思いながら、
「当分、外国へ出発する予定はありませんが」
「・・・」
「・・・」
 ややあって、ようやく私の頭をよぎったのは、政府職員であるこの女の子が、街中で意味不明の言葉をさえずる若年者の仲間らしいということ。とすると、彼女の真意を探って答えを出さなければ、ここを通してもらえないということになる。一大事である。
 若造たちの言葉の不思議の一つに、過去、現在、未来を、どう言い分けているかが皆目わからない点である。
 過去かと思えば現在だったり、未来かと思えば過去だったりする。よくよく気をつけていないと、とんでもないことに成りかねない。
 しばらく呆然としたが、程なく答えは出た。彼女が言いたかったことは、今回の旅行に出発したのはいつだったかに違いない。
 それなら「ご出発はいつでしたか?」ですむものを・・・。これは、その場を立ち去るとき私の口から出たブツブツ、つまり独り言である。

 日本語が乱れているとの声を聞くようになって既に久しいが、その惨状の現場にみずから切実な立場におかれて立ち合ってしまった。
 ところで、日本語の乱れを指摘する発言のなかに、「ちょー」「まじ」「ぶっちゃけ」の類の、すこし品位は欠くが、若者たちのいわば新造語を非難する声もあるが、この声に組する気持はない。これら若者新語は、意味さえ分かれば何も困ることはなく、使いどころにも無理はなく、上に挙げた症例とはまったく異なる現象と見てよい。
 会話を成り立たせなくする日本語の乱れ、意思の疎通が果たせなくなる日本語の弱体化というものは、そのような新造語のせいではない。この種の新語をここであげつらう積もりは全くない。ここでは、日常の生活のなかでいきなり遭遇した、またテレビに登場した人々の話しを聞いている際にやり場のない困惑を覚えた事例を紹介しながら、筆者なりの分析を試みようというものである。
 筆者はもとより日本語学者でもなければ文法学者でもない。ここにだらだらと書きのべたことの中には、専門家の目にはとんでもない過ちがあることも覚悟の上だ。もし、そういう個所を発見されたならば、直ちに酒席などで笑いの種にされても一向にさしつかえない。むしろ望むところと言えようか。そこで議論が短時間なりとも起るようなことがあれば、それこそ本望なのだから。

 ここで取りあえず入管当局には、職員の厳しい訓練を、というより寧ろ正しい日本語の習熟度にもっとも重きをおいた新人の採用をと言っておきたい。人の話し振り、言葉遣いこそは、その人の知的能力を測る最高の目安なのだから。

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2の節 動詞

2005/08/13 18:46
■「ホームでお待ち合わせください」■

 JR西日本という巨大事業体の業務管理が、網の目状の末端組織による硬直的で自浄作用のない運用に委ねられ、本社中枢による広く十分な目配りや指令はないに等しかったらしい。4月末に宝塚線で起った列車脱線事故の悲劇で、それがはからずも明るみに出てしまったようだが、実は、この会社の末端部署に対する目配りのなさについては、随分と前から痛切に感じるところがあった。
 外でもない、列車内や駅構内でスピ−カ−から流されるアナウンスの日本語である。もう数十年前になろうか、おかしな言葉を耳にするようになったなと思う間もなく、それが全国隅々にまで、JRばかりか各地の私鉄にまで広がってしまうのにいくらも時間はかからなかった。
 それは例えば「お乗り換えの方は何々番線のホームでお待ち合わせ下さい」というものだ。
 お待ち合わせください?一体誰と待ち合わせると言うのだ。かつては「お待ちください」としか言わなかった。今でも普通に「待ち合わせる」は、だれそれと約束の場所で待ち合わせるというようにしか使っていない。それが何故か鉄道のアナウンスでは「お待ち合わせください」が定着してしまっているかのようだ。
 筆者はいつも、このアナウンスを耳にするたびに、なぜこれが何時までも直されないのだろうと不思議な思いで考え込むのだった。自問自答したあげくの自分なりの結論は幾つかあった。JRの下部組織は強力で本社も口出しができないのか、各部署の縄張り意識も強くて外部からの口出しは一切タブーになっているのか、本社はこの種の事項は些細なこととして冷淡、無関心なのか、そういった事だった。
 これがJRの恥でなければ何であろう。実にながい間、この恥をさらし続けて恬として顧みない。それがJRの根っからの体質であったことを今更ながら知る思いがする。
 序でながら、最近耳にした東海道線電車の車内放送に、このようなものがあった。
「車内での携帯電話のご使用はお控え願います。皆様のご迷惑となりかねます」。
 一瞬、車内がシーンとなったことを覚えている。これなどは、この車掌一人の個人的なしくじりに過ぎないであろうが、JRの職員に対する言葉の教育がずいぶんとなおざりにされていることを思わせるにも十分だった。

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1の節 前書き

2005/08/12 16:21
 言葉は生きものだというが、現在の状況はちょっと野放図ではあるまいか。
 過去二年余、折りにふれ、とはいっても大部分はテレビを見ていて、耳障りな日本語(日本語と言ってよいかどうか疑わしくもあるが)を聞いたとき、それをその場で書きとめる習慣がついていた。このメモが一冊の手帳を埋めてしまったので、ここらで整理しておきたいと思った。この一文は、やや粗雑ながらその産物である。
 異論、反論、多ければ多いほど望むところである。何なりと論点が浮上して議論のやりとりでも巻きおこれば、望外の幸せというものだ。
 見返せば、まとまりのなさばかりが目立つが、大ざっぱに言って、動詞、助動詞、助詞、名詞を取り上げ、この順でとりとめもなく書き連ねてみた。
 人には誰でも過ちはある、言い間違いというものはある、それを一々あげつらっているだけではないのかとの謗りもあろう。それがそうではないことに、いずれ気付いてもらえることを祈るほかはない。

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